昭和五十四年六月二十七日 朝の御理解
御理解第二十二節 天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。 合楽で教えられている信心の、いうならば決定版のようなものですね。この教えは。
合楽でいわれる信心の受け物、それは小さい、大きいはありますにいたしても、その内容が、天地日月の心になることというわけですね。これが受け物です。
天の心とは、地の心とは、日月の心とは、と日々あらゆる角度から研修させて頂くわけ であります。
天の心には優れておっても、地の心はない。例えば、天の心のように無条件に与えると いったような、こう与えるといったような、美しい心を持っておっても、地の心、黙って受けて受けて、受け抜くといったようね辛抱力がない。
根性がしっかりしてあるから、なかなか辛抱力が強いといっても、それが我力のようで あって、美しい、うるわしの心という与えてやまんという心がない。それでは、ちんばを踏みますわけですからね。だから、天地の心を心とする。しかも、私共の信心修行においては、日月の心という。それこそ、実意丁寧神信心、もう日月の心。お天道様が、一日も休む事がないように、日々私共がこうやって朝参りでもさせて貰う、信心の修行が有り難うなってくるという事なんです。
ここでは、日参、教聴。結局、その自分の信心の上に、この感じられるというか、これ がお徳だなあと、いやが上にも心が豊かになってゆく、本当にこんな有難い心になった事もなかったという心がだんだん頂けてくる。豊かになってくる。それが楽しいのである。私共の生涯は、大体ここにかけたらよいのである。
人間は、いよいよこの世に、もう、いよいよ本心の玉を磨きに来たのだ。心を清まりに 来ておるのが、私共厳正のいよいよの願目《眼目》だという。その為に、私共はこの世に生を受けたのだと、分かれば分かるほど現在の合楽で、日参・教聴、いよいよ有難い御教へを頂いて教えに基づいた生き方というものが、日々それが繰り返される。まさしく、日月の心であり、その教えを家庭生活の上に表わしていこうという。ね。
実を言うと、そうあらねば、そうしなければ立ち行かんというよりも、そうしなければ おられなくなってくるのが信心だとね。
昨日、私が、あるいうなら人間的にいうならば大変、まあいうならば人徳者というか、 人格者というか、その人が、後ろから私に自転車の指導をしておる。ああ、親先生、そげん時には、ちょいと足をつきなさるといいですよ。ああ、そういう時には、倒れかかった時には、ハンドルを倒れかかっとる方へ持っていけば真直ぐなりますよ。それを聞きながら、私は自転車に乗っとる。昔、若い時には、自分で自転車に乗っておりましたから、夢の中でも乗ってはおるけれども、もう、五体がいう事をきかんわけですね。なかなか思うように自転車が乗れない。
そして、倒れた時に、私が思う事は「私しゃ、自転車はもうだめだ」と思っておる。そ の心がね、いうならば人間心でいける生き方と、いうならば、神ながらに生きる生き方。いうならば、人ながらというような言葉はないでしょうけれども、人間の限りの知恵やら力やら、あり方やらをですね、道徳的なら道徳的におさめて生きていこうという人たち。人から、よし、場合には笑われてもね、そしられても、悪口を云われても、只々神様の 仰せには背かれんと、いうなら神ながらの生き方。
もう私には、その神ながらな生き方が身についてしまっておるから、もう今に、自転車 自分で踏まねばならんというようなものは、もう止め、自転車はもうだめだと、こう思っておる。結局、生涯この神ながらな生き方をいよいよ豊かに美しく、しかもね、それを究めに究めて、神ながらな生き方が身についていく事だろう。
今日のご理解は、これなんです。
「受け物が悪いとおかげが漏るぞ」とおっしゃるのはね、私共は、受け物を、どういう受け物を作ろうと精進しなければならないかと云うと、先ず、天の心、地の心、日月の心を心として、私共が稽古をしていく。
そこにはね、成り行きを尊び、成り行きを大事にしていく生き方。
もう、それこそ天地と共に生きているのであろうかと云うように、いうならば、天地が バックアップといったような確信も生れてくるしね、ね、神様が、いうならば、私共まかせになって下さっていつかのように、天地が自由になって下さる程しの働きが、それが表われてくる。それが、楽しい。幸せな生活に、一つのそういうリズムが出てくる。合楽の人達は、そこん所がだんだん分かっていっておる生活を楽しんでおる。楽しんでおられるというとなんだが、楽しみながら信心の稽古をしておられる方達が、だんだん増えてきたということが、合楽の信心の、いうならば値打ちであり、光であると私は思います。
そういう人達が、いよいよ出けて来なければいけません。ね。そこが、受け物。天地日 月の心を心とする生き方を、おかげの受け物とすると同時に、ここにありますね。
「ままよ」、十二分の徳を受けようと思へば、いうならば、天地の徳をそのままにね、 小天地である所の私共がね、十二分に受けるということは、天地の心を心とする。天地のそこに、これが天地の徳、いうならば、神様の御信認、御信用というものが身に付いてくる。
そういうおかげを頂く為にはね、ままよという心を出さねばおかげは受けられん、とお っしゃっておられる。
私は、ここでは、ままよという事は何かが起こって来た。びっくりするようなことが起 こって来た。御神意をうかがったら、右だ、左だと教えて下さった。だから、親先生まかせにになって、度胸を据えてるといったような時に、ままよ、というような心を出すのかと思っておったら、生活の全体すべてがままよでなければならないという事を、今日は感4ます。
昨日、研修の時に、たとえば若い先生達がね、一生を、いうならば信心に捧げよう。人 が取次助けられる事の為の御用に使うて頂こうとして、いうならば、お道の教師になっておる人達ばっかりですから、いうならば、ままよという心を出さねば出ける事ではないと思うです。だから、先生あんた方の場合は、もう自転車の徳というのは入らないことだよね。だから、今、あなた方がしなさらなければならないのは、結局、わらじばきの信心を本気で身に着けておく事だよ。
自転車の信心というのは、もうない。そして、いよいよ布教にも出たら、もういつもそ の場でです、沢山の人を乗せられる、いうならば、自転車の徳といったようなね、例えばそれを、まあ表わしておるのが、末永先生ですよね。十年間、びっちり、わらじばきの信心をさせてもらった。わらじとは、『和楽路』。
それこそ、言葉も分からん南米の地に行ってです、もう十日目から人が助かりだした。 今日は十人、明くる日は二十人と、いうように増えていった。しかも、あちらにおられる日本人だけでなく、現地人は云うに及ばずね、白人、黒人がどんどん助かっていっておる。半年余りの間に、日に百名からのお参りがあるようになっった。
自転車の修行というような事は、全然ないでしょうが。だから、昨日、修行生の方達に ね、それを申しました。「あなた方は、今こそ、和楽路ばきの信心を本気でさせてもらはんなら。」どういう中にあっても「和の心」。どういう心の中にあっても「楽な心」。いうならば、どういう中にあっても「和賀心」を目指さして頂いての信心修行。その為の修行ならば、どげな修行でもいとわん。と云うて、火の行、水の行をするわけではないから、一日の修行の中に、「心行修行」。「心行表行」を全廃して家業の行。いうならば、先生方の場合なんか心行だけではない。心の行だけではない。「信行」
信行というのは、信心の行。
七月一日から、夏の信行が始まります。全国一斉に始まります。そういうのを信行とい う。しかも、その、御祈念だけの時間じゃあない、一日が信行である。信心の行である。それに勿論、心の行が伴うていくということなんです。だから、先生方の場合は、自転車の行はないとこういう。
けれども皆さんの場合は、そんなわけにはいかない。やはり、人間心を使わなん時もありますしね。いうならば「人ながら」の生き方もしなければならんけれども、結局は、人ながらを卒業して「神ながらの」生き方。
[人力に見切りをつけて、神力にすがれ、人力おのずからわく]ね。そういう、いうな らば人ながらを捨て切った所にですね、いうならば、神様の大きな働きに、委ね任せれる心というものが、そっから人間だからね、じっとしとくわけにはいかん。そっから、やはり人間の営みとか、働きはあるけれども、それがそのまま、限りない人力につながるのです。ね。
[人力に見切りをつけて、神力にすがれ、人力おのずからわく]という、これは、私を 見て下さるが一番いいと思います。どういう、例えば、とても以前は出来ないと思うていた修行がね、人力おのずから沸いてくるから、修行が出来るんです。日々。間違いなく、狂いなく出来るんです。
私は、今日はここん所をね、はあー「十二分の徳を受けようと思へば、ままよという心 」とは、なんか特別な時、例えば医者が見放した時といったような時、もう神様のおかげを頂かねば手はないと、もう医者も薬も投げ捨てて神様におすがりするという、そういう時に出てくる心かなと思ったんです。実は、そうではない。日々がそうなんです。昨日の御理解ば一ペン、あの、思いおこしてもらわんと、いわば詳しく分かりませんよね。
それこそ、神様におすがりするより外に手はない、ということになります。
四、五日前に、遠方から参って来られた、三十四、五位になられましょうか。奥さんも ありゃ、子供もある。そして、店を経営してある。まあ、立派な風格の方でした。
「私しゃ、皆人から嫌われます。人から、いつも裏切られてばかりおります。それも、もう肉親の者からも裏切られます。もう、この世に生きる望みを無くしました。」と、こういう。ね。「そりゃあ、子供さんやら奥さんやらおんなさるなら、あなたは死んで、そりゃよかるばってん、後んもんなどうするですか。」ち、云うたら、「いいえ、一時は悲しむかも知れまっせんばってん、日にちが経てば、忘れる事でしょうから。」と。どんなに説得しても、死ぬる、死ぬると云うんですよ。ノイローゼじゃあなかろうかと思うたけれども、そうでもない。真剣に考えとられる。そんなら、参ってこんでんよかろうばってんと、思うたけれども、参ってきたと云う事は、神様が助けにゃあおかんという働きがあると、私しゃこう思うたんです。
それで、私は申しました。あなたが遠路の所、ここまで参って来たけれども、あんたが 参って来たとじゃあない、いうならば、参らされて、許されて参って来た。お仕事をするでもあんたがすると思もよるけれども、許されて仕事をした。自分で食べ取ると思うけれども、許されて食べておるんだよ。ね
その証拠に、体の具合が悪かったら、そこには米俵が積み上げられんように積み上げと っても、さあ、その米粒が一粒も喉を越さんという事があろうが。さあ、手術どもした後にはお水を頂くことは出来んという事ですが、どんなに頂こうと思うても、人間が飲ませまいという働き、飲んじゃあならんという事になろうが。
自分で飲みよる、自分で食べよる。自分で、ここまで運転して来た。自分が参って来た という所にはね、信用はないです。許されて、今日の私が生きているんだ。許されて、という事を分かったか分からんようにしておられて、しばらくここの所に、長い間ここで天地書附、お庭をね、じっと眺めながら、ここで、お参りして来て、次々と御取次ぎ頂かれて御理解を頂かれるのを聞いておられました。
そしたら、翌日又、参って見えました。「今日は、許されて参ってまいりました。」助 かったと思いましたですね。「そうでしょうが」と。「だから、許されて参って来たんだから、お引き寄せを頂いて有難いという御礼が出るんですよ。自分で食べているのではない、許されて今日も食べさせて頂いた。許されて、健康で食べられたというのですから、有難いと御礼を云わにゃあおられんでしょうが。もう、この世ん中には、御礼を云わにゃん事ばあっかりですよ。」と、いうた事でしたけれどもね。
そういう所が、ぎりぎり私共が分からしてもらう所に、いうならば感謝の心がいやが上 にも出けてくる。その感謝の心を持ってしなければ、天地日月の心という心は分からんし、又、それを自分の身に付けようというような意欲も生れてきません。
その有難いという、その心が、その、みずみずしい有難さが、私共、今日も一日、いう ならば何事も信心にならせて頂いたという事になるのです。その信心生活の中にです、そげなばからしいこつがあるもんか、と、そげなこつは出けんというような事もあろうけれども、そういう時にでも「ままよ」という心を出さねばならん。
日々です、「ままよ」とは。いいえ、他んことは何でもよかばってんから、もう子供ん こつだけは教会に任せるわけにはいかん。と云う人があるですもんね。これ程熱心に信心するのに、少なら少に出しきらんと云う。そういう意味で、久留米の佐田さん達なんかは素晴らしいね、と話した事でした。三人の子供をもう、たとえば、云うなら、合楽に通いよると勉強が出けんごとなるとかね。勉強の時間がないというて、心配する親達があります。
どんなに他ん所にね、「ままよ」という心を出しよっても、そん一事だけで、もう神様 をその程度にしか信じとらんと云う事になるのです。
参らんというとば、参らするとじゃなかばってん、親のほうが合楽通いはいっときばっ かり止めんの、勉強ん方が差し支えるから、とこういうて、子供は参りたい、参りたいちいよるばってん、それを参らせまいとする。
こういう生き方は、まあ人力でいく限りいってもいいでしょうけれどもね、そりこそ、 親が教育するから、それこそまあ立派なふうに育とうけれども、それが幸福にはつながらない。ぎりぎりの所が分からねばね。いうならば、あなた様に任せるということは云えない。
いわゆる、「ままよ」とはそういう時に出てくるんだと、もう日々が「ままよ」であり 日々が、天地日月の心を心とする精進である。だから、そりゃちょっと難しかろうというと難しいけれども、私共が、日々許されて見えている、許されて聞こえておる、許されて食しておる、許されてお参り、一切が許されてと云う事になる時にです、許されてですから、、御礼の心が自ずと沸いてくる。
その、おのずとわいてくる喜びとか感謝の心をもってです、いよよ天地日月の心をもう いよいよ微に入り細にわたって、研究させてもらう、分からしてもらう。で、それを自分の心としてゆく生き方。
そして、いつもが、「ままよ」という心。そこに、神の徳が十二分に受けられる働き。 いうならば人ながらの生活から、神ながらの生き方が本当に出来てくるようになる。そこに、合楽世界に住まわせて頂く実感。極楽のもういっちょ向こうにある、合楽世界。神と氏子とが仲ようする信心。神様と氏子とが、合楽し合える信心、御礼が云いあえる信心、喜び合える信心。そういう信心生活が身に付いてくるんです。
皆さん、朝の御祈念にこうしてお参りなさる方は、今日の私の云うことは、よう分かる だろうと思うです。ね。合楽の方なら分かるです。けれども、実際の問題に、ぴったりと入りこんでしまうということは、難しいと云えば難しい。ならば、佐田さんの例をとるならば、見易いというならば、こんな楽な事はない。そのへんの所を、こんな楽な事はないと云う、私は体験をね、いよいよ実験実証していかなければならないというように思います。
いよいよ、天の心、地の心。とりわけ、ここ二、三日説かれている天の心。それは、い よいよ、今まで地の心、土の心、いうならば黙って受け抜く修行をさせて来て頂いた。これは、受け身の信心であると説かれている。
そこで、後にわずかに残っておる天の心という事をです、私共は打ち込んでいく、受け 身ではなく、こちらから打ち込んでいく信心。しかも無条件。
限りなく美しい心で、御用なら御用に打ち込んでいく信心。そういう信心にならせても ろうて、いよいよ、天の心を心とする生き方を、身に付けていきたい。
勿論、日月の心。日参、教聴である。いよいよ、心行・家業の行に打ち込ませてもろう てね、合楽理念の実験実証者としてのおかげを頂き、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いて、いうなら、自らが打ち込んでいくという信心。いうならば、そういう信心を頂いて、それを真の御用というか、、信心の真というか、その信心の真を表わしていくという所に、代勝りのおかげともなりゃあ、真善美に輝く、貧争病のない、いわゆる合楽世界の顕現という事になるのです。
そういうおかげをね、もう合楽の一人ひとりの方が願わしてもらい、目指して頂かねば いけないと思うですよね。
どうぞ